本記事は、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(1968年、講談社現代新書)の全章詳細まとめと書評を併載したものです。
目次
第1部 全章詳細まとめ
はじめに
三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(1968年、講談社現代新書)は、弁証法を「哲学」ではなく「科学」として捉え直し、日常生活や社会の具体例を駆使して弁証法の基本法則を解説した一冊です。著者の三浦つとむ(1911年東京生まれ、1989年逝去)は、実業学校中退後、独学で社会科学の研究に取り組んだ在野の研究者であり、『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)、『認識と言語の理論』『大衆組織の理論』(ともに勁草書房)、『現実・弁証法・言語』(国文社)、『弁証法・いかに学ぶべきか』(季節社)など多数の著作があります(外部資料による)。
本書は全6章から構成され、各章の章扉(見開き)にはエンゲルス・マルクス・毛沢東からの引用が掲げられています。第1章冒頭の「弁証法を軽視すれば罰なしにはすまされない」(エンゲルス)というアフォリズムが本書全体のトーンを決めています。本書は弁証法の三つの基本法則 ―― 「対立物の相互浸透」「量質転化」「否定の否定」 ―― を軸に、世界の見方から認識論・社会構造、さらにレーニン・スターリン・毛沢東の唯物弁証法理解に対する批判にまで及びます。
第1章 世界のありかたをどう見るか
章扉のエンゲルス引用:「弁証法を軽視すれば罰なしにはすまされない。」
〈1〉世界は弁証法的な性格をもっている
毎日の生活で問題にぶつかり、過去の経験や諺を頼りに対処するわたしたち。三浦は「もっと科学的な方法はないのか」と問います。創価学会など新興宗教は最新の科学を取り込んでも古い迷信(輪廻、来世観)を抱えていることを批判する三浦は、「生」と「死」、「教える」と「教わる」を別事象として扱う常識の限界を指摘します。
電気・熱・光・化学的エネルギー・機械的エネルギーは互いに移行しあい、水・氷・水蒸気・雪・霜は同じH2Oのありかたであり、ラジウム発見以来、元素も互いに移行する。物ごとの区別は一時的・相対的であり、ある条件下で互いに移行しあう ―― これが自然・社会・精神をつらぬく普遍的な法則性のひとつです。
弁証法は「対立物の統一に関する学問」「物ごとの本質そのものにおける矛盾の研究」を中心におきます。「負けるが勝ち」という日本の諺、デューマ『ブラジュロンヌ子爵』のダルタニャン、毛沢東『中国革命戦争の戦略問題』 ―― 民衆の諺・金言にもすでに弁証法的把握が含まれており、低段階の正しい理解が高段階の準備になります。
〈2〉唯物論と観念論とは互いに移行しあう
世界が永遠に存在するか創造されたかをめぐり、世界観は観念論と唯物論に分かれる。三浦は両者の区別もまた相対的で互いに移行しあう、と論じます。建物の設計図のように物質に対する精神の先行を不当に拡大すると(自然の背後に精神を見る)観念論に転じ、宇宙の観測可能限界を絶対化して「百億年前の特異点」「絶対無からの創造」を導く宇宙論も「天文学的観念論」に転じます。
弁証法も科学であろうとするかぎり唯物論の立場に立たねばならない。物質的世界自体が弁証法的性格をもつことが弁証法の根源です。
〈3〉学問は党派性をもち階級性に結びつく
夏目漱石『吾輩は猫である』の下女(歯軋りの「覚え」がないから歯軋りの事実もない = 観念論)と「猫」の反駁(事実は覚えがなくても存在する = 唯物論)の例。学問は中立ではなく、世界観の選択は階級的立場と不可分です。
中ソ論争にも触れ、中国の「核戦争でも人類は壊滅しない」「帝国主義戦争は社会主義の勝利に終わる」という主張を、水爆出現後の現実に照らして批判。平和運動は階級を超えた広がりをもつ運動であると同時に階級の「共倒れ」を防ぐ運動です。
第2章 弁証法はどのように発展してきたか
章扉のエンゲルス引用:「熱素説の力学的熱理論に対する、フロギストン説のラヴォアジエ説に対する関係とちょうど同じものが、ヘーゲル弁証法の合理的弁証法に対する関係である。」
〈1〉古代ギリシアからヘーゲルまで
ヘラクレイトスの「万物は流転する」、仏教、中国の陰陽説 ―― 古代の素朴な弁証法的世界観は本質的に正しい。ゼノンの詭弁(飛ぶ矢、アキレスと亀)は可能性と現実性のつながり、連続と非連続の統一、運動の矛盾性という重要な問題を提出。
近代の自然科学は分析と部分的研究で成功したが、その方法を世界観に持ち込んで形而上学的世界観が成立 ―― ニュートンの「全能の神の指」、種・山川の不変観など。カントからフィヒテ、シェリングを経てヘーゲルに至るドイツ古典哲学が、弁証法を観念論の立場で復活させた。「絶対理念」の自己発展として弁証法を体系化したヘーゲルの功績は大きいが、観念論の枠内にとどまる。
〈2〉ヘーゲルからマルクスへ ―― 唯物弁証法の成立
マルクス・エンゲルスはヘーゲルを「破りすて」ず、その弁証法を唯物論の立場でつくりかえた。労働者ディーツゲンも独立にこの仕事を成し遂げた。エネルギー論・細胞論・進化論の自然科学三大発見が自然の弁証法的性格を実証し、ギリシア人の素朴な弁証法のより高い段階での復活が成立しました。
〈3〉現在はどうなっているか
マルクス・エンゲルス以後、唯物弁証法の発展は均等・直線的だったか? ソ連や中国の教科書はそう書くが、事実は違う。革命運動の指導者たちは原典を全面的に手にできず、徹底的研究の条件にも恵まれなかった。「レーニンにも唯物弁証法の原理をあやまってとらえたところがありますし、スターリンや毛沢東にあってはさらに後退を示している」(三浦)。中ソ論争も両国とも原理的にあやまった唯物弁証法を信じていることに原因があると三浦は指摘します。
毛沢東が「観念論と形而上学はでたらめ」と書いた1955年の文章も、形而上学の妥当性を限界の中で認めるマルクス主義本来の主張からは修正である ―― と本章は結ばれます。
第3章 「対立物の相互浸透」とはどういうことか
章扉のマルクス引用:「両者のおのおのが直接に他のものである、というだけでもなく、他のものを媒介するというだけでもない。むしろ両者のおのおのは、みずからを完成することにより他のものを創造し、みずからを他のものとして創造する。」
〈1〉相対的な独立ということ
「風が吹けば桶屋がもうかる」式のつながり強調を批判。銀箔と紙風船、人間の細胞、写真と被写体、家系と先祖 ―― これらは「つながっていると同時につながっていない」関係 = 相対的な独立。巡査と泥棒の挿絵(A)(B)は、本質と現象が時に逆立ちすることを示す名場面。
特殊性と普遍性の関係は、教条主義(普遍性偏重)と経験主義(特殊性偏重)を避ける鍵。中国指導者が中国成功例を日本に押しつけるのは経験の教条化です。
〈2〉媒介と同時に直接性を含んでいないものはどこにも存在しない
形而上学者は媒介のない対立で考えるが、現実は媒介関係の発展のなかで矛盾した構造をもつ。歯車のかみあわせ、利子の真の源泉(産業資本家の搾取する剰余価値の一部)、労働者の資本家化 ―― 物質的な相互浸透が意識の相互浸透を生む。毛沢東は「同一性」を「統一性」「相互浸透」と同じ意味に不当拡大したと三浦は批判します。
〈3〉認識論と弁証法 ―― そのー、絶対的真理と相対的真理および真理と誤謬との関係
ディーツゲンによる模写説擁護(認識は近似的模写、対象の無限多様性を含み尽くせない限界はあっても模写であり実在は否定されない)。
〈4〉認識論と弁証法 ―― そのニ、精神的な鏡と物質的な鏡
ペニシリン発見・合成、仮説と科学、フーリエの「不明瞭なものに関する理論」、諺の二重の意味、庄司和晃の三段階連関理論。物質的な鏡(顕微鏡、レーダー、テレビ)と認識の鏡が互いに発展しあう。「日本の共産党のように、過去の『病気』に分析のメスを入れる態度を否定する」のはいけない、と三浦は批判します。
〈5〉認識論と弁証法 ―― その三、世界の二重化と自分の二重化
クリちゃんの未来想像、漱石の「猫」、時枝誠記の国語学的分析。ハイデッガー・ベルグソンの「本質的時間」を逆立ちした観念論として批判。ガラスの鏡と人間の鏡。
〈6〉人間と自然との、および人間と人間との相互浸透
労働力それ自身も人間の生産物。物質的生産と人間の生産の二重性。リカード労働価値説の挫折とマルクスによる解決(労働力と労働の区別、剰余価値)。
〈7〉社会の土台と上部構造との相互浸透
歴史の根本的原動力は物質的生活の生産と再生産。意志の観念的対象化と契約、権力と意志、規範、国家意志、宗教(観念的対象化)、しつけ、社会の矛盾と疎外。
第4章 「量質転化」とはどういうことか
章扉のエンゲルス引用:「自然においては質的変化はただ物質または運動の(いわゆるエネルギーの)量的増加か量的減少によってのみおこりうる。」
第4章は番号付き節がなく、内容上の小見出しで議論が展開されます。
物質の量と質との関係:酸素とオゾン、メチルアルコールとエチルアルコール、気体の液化、原子核反応(ラジウム以来の元素変換、ウラニウム分裂、水素融合)。
媒介関係での質的変化:薬量と人体(無効量 → 薬用量 → 中毒量 → 致死量)。漸次性の中断・飛躍・結節点は条件で動く。
集団力の発生:マルクス『資本論』の集団力 ―― 個別労働力の総和ではない。資本主義は集団力を支払わずに利益化する。
「水ぶくれ」による質的変化:量を増やすために質を下げる「水ぶくれ」で間違った方針が多数決で通る質的変化。「これは日本の戦後の革新政党が、いまだにぬけ出していない誤謬です」(三浦)。
指導の質的な高さ:指導者養成の重要性。経験不足の素人指導者は「冒険主義 → 保守主義 → 逃亡主義」の段階で失敗する。
サークルでの量質転化:七・八人 → 三十人超で発言機会が偏り不満が出る。「会に不満な人間は来てもらわなくていい」と既存のあり方にしがみつく態度が、戦後の文化サークルを消滅させた内的原因。
過渡期のありかた:企業破産の連鎖、原子力の連鎖反応(原爆と原発の違い)、言語の変化(瞬間の発生消滅と社会的規範の確立期間)。部分と全体の混同を避ける必要があります。
第5章 「否定の否定」とはどういうことか
章扉のエンゲルス引用:「それは自然・歴史・および思惟の、きわめて一般的な、またまさにそのゆえにきわめてひろく作用しているところの、重要な発展法則である。そしてデューリング氏でさえも、どんなにさからってもがいても、しらずしらずに彼なりの流儀でこの法則には従わなければならないものである。」
〈1〉まわりみちということの重要性
水車 → 発電機 → 送電線 → モーター → 米つき機械というまわりみちが空間的限界を超え、利益を生む。拡声装置(機械→電気→機械)、録音再生、映画とテレビのトリック撮影、蓄音機の発展。麦粒(種 → 植物 → 多数の種)、戦争の計略(ナポレオンのモスクワ撤退)、暗号通信(原文 → 暗号 → 翻訳)も同じ構造。
〈2〉人間はまわりみちをとって生活している
精神的なまわりみち(世界の二重化、自分の二重化)と肉体的なまわりみち(自然加工、調理、保存)。人間の歴史も、無階級社会 → 階級社会 → 無階級社会という大きなまわりみちです。
〈3〉否定の否定は弁証法の基本法則である
スターリンが1938年に否定の否定を弁証法説明から除外したため、ソ連教科書から消滅。戦後日本の松村一人らもスターリン支持。これは形而上学的見方。毛沢東の発言(「攻撃するための防禦、前進するための後退、まわりみち」)は実践的に正しい。スターリンの死後、ソ連の哲学者は「復権」させたが、中国はいまだに復権させない。
〈4〉探偵小説と弁証法 ―― 「ぬすまれた手紙」の分析
ポーの「ぬすまれた手紙」「モルグ街の殺人事件」を弁証法の傑作として詳細分析。総監の方法は「プロクルステスの寝台」のような形而上学。八歳の子の偶数奇数の勝負、「コンニャク問答」、相手の心の中に自己を観念的に投げこむ ―― 観念的な自分の二重化。
D大臣は手紙を隠さないことで隠した ―― 感性的認識と理性的認識の矛盾を意識的に利用。第一次大戦のアメリカ「ブラックチェンバア」事務所(ニューヨークの最も人目につくオフィス街) ―― 賢明であるがゆえに失敗するポオの教訓は、進歩的政治家の失敗にも当てはまる。
〈5〉科学の歴史における「否定の否定」
「ハダカの王様」 ―― 賢明であったために自分の見たままを口に出せない大人たち、賢くなかった子どもが真理を叫ぶ。地動説 → 天動説 → 地動説、言語構成説 → 言語過程説、労働価値説 → 効用価値説 → 労働価値説 ―― 科学の歴史における否定の否定。「最初の素朴な見かたは、概して後の時代の形而上学的な見かたよりもヨリ正しい」(エンゲルス)。
第6章 矛盾とはどういうものか
章扉の毛沢東引用:「具体的な分析をはなれては、いずれの矛盾の特質をも認識することはできない。」
〈1〉矛盾には二つの種類がある ―― 克服による解決と実現による解決
ヘーゲルの「ゼノンの詭弁」への解答、運動は矛盾そのもの。エンゲルス『反デューリング論』の生命の矛盾論。中国故事の「ホコとタテ」由来の常識的矛盾と、ヘーゲルの「父と子」型矛盾の二種類を区別。
敵対的矛盾(ガン細胞と健康細胞、プロレタリアートとブルジョアジー)は止揚・克服で解決し、非敵対的矛盾(ベルトコンベヤー上を逆走する人、文化サークルの水準維持、労働組合の指導部立体化)は形態の創造による実現が解決。
〈2〉世界は過程の複合体であり矛盾の複合体である ―― 根本的矛盾と主要矛盾
毛沢東『矛盾論』の段階性論を一定評価しつつ、毛沢東の弱点である非敵対的矛盾の不理解を指摘。三浦は芸術過程(対象 → 認識 → 表現 → 鑑賞)を例に矛盾の複合的展開を解明します。
主要矛盾と根本的矛盾の関係 ―― どちらか一方だけを強調するのは誤り。両者の関係を正しく指摘するのが正しい行き方。階級社会の矛盾は本質的に敵対的、階級なき社会の働ける人と幼児・病人・老人の関係は非敵対的です。
〈3〉中ソ論争と矛盾論
中ソ論争はどちらが正しいかという単純な問題ではなく、どちらもマルクス主義を修正している。
レーニンの分裂論には敵対と非敵対の区別があるが、続けて「相互に排撃する対立物の闘争は……絶対的である」と書いた。これは敵対的矛盾を全矛盾に拡張する誤りで、スターリン → 毛沢東に受け継がれた。社会主義社会の根本性格は相互協力であり、非敵対的矛盾の解決はマルクスの言う「調和」 ―― これがスターリン死後にソ連で再認識された立場。
中国共産党の周揚はソ連哲学者の「調和」論を「修正主義」と攻撃し、「世界のどんな事物でも、つねに一つのものが二つに分裂する」という分裂の必然性を弁証法として説いた ―― これは弁証法の歪曲による中国の国際的分裂工作の合理化(三浦)。
毛沢東の矛盾論は形而上学的:敵対的・非敵対的の違いを「闘争形態の公然・隠然」という現象論に解消し、敵と味方を「ハッキリ区別」しようとして過渡的な「二心分子」の存在を認めない。「毛沢東の指導しているプロレタリア文化大革命と称する権力闘争が、わたしたちの目には味方を敵あつかいして不当に攻撃し大きな混乱をまねいているものとしか受けとれない」(三浦)。
「団結 ―― 批判 ―― 団結」の批判
毛沢東『人民内部の矛盾を処理する問題について』(1957年)の「団結 ―― 批判 ―― 団結」の定式を、三浦は正面から批判します。
組織の団結それ自体が共通の意志に基づく調和と相互協力で、非敵対的矛盾が実現・解決しているありかた。これに対し、思想的対立を克服する討論・批判は「論敵」との対決による敵対的矛盾の解決。両者は立体的に組み合わさるべきもの。
意見のちがいですでに団結が失われてしまったときには、団結の「願望から出発」することもありますが、組織内に生れたまちがった思想を論ずるときは、団結が存在していることが前提であって、討論や批判は団結をさらに強めたいという願望から生れるものにほかなりません。毛沢東のように、団結 ―― 批判 ―― 団結と、批判のときには現実の団結は存在していないような、団結が批判のときにはブチ切られてしまっているような図式化は、正しい把握とはいえません。
周揚はさらに、団結をブチ切ることが弁証法と言い換え、楊献珍がこれに反論して粛清された。三浦は指導者の神格化の害毒を強調し、健康な懐疑精神・批判精神を呼びかけて本書を結びます。
第2部 書評
この本はどういう本か
弁証法を「哲学」ではなく「科学」として捉え直し、日常生活の豊富な具体例で基本法則を解説した在野の研究者による入門書 ―― それが本書の最も簡潔な紹介です。三浦つとむは大学の研究室に閉じこもらず、市井の人間として弁証法を学び・考え・書きました。その姿勢が本書の文体と具体例の選び方に色濃く反映されています。
本書の魅力
圧倒的な具体性
「対立物の相互浸透」を説明するのに、三浦は巡査と泥棒の挿絵を持ち出します。(A)は泥棒が警官にひっぱっていかれる場面、(B)は制服を着た人物がじつはニセ警官で、私服の人物こそが変装した本物の警官 ―― という場面。この素朴な挿絵ひとつで、「表面的な現象の奥にある本質的な関連を把握する」という弁証法的認識の核心が伝わってきます。
「量質転化」では、酸素とオゾンの違い、メチルアルコールとエチルアルコール、薬の量(無効量 → 薬用量 → 中毒量 → 致死量)、原子力の連鎖反応、企業破産の連鎖、組織の「水ぶくれ」現象などが続出します。同じ物質が量の違いだけで「薬」にも「毒」にもなる ―― 量と質の関係が、生命の問題、組織の問題に直結することが説得的に示されます。
「否定の否定」では、まわりみちの科学的装置、エドガー・アラン・ポー「ぬすまれた手紙」「モルグ街の殺人事件」が分析されます。とくに「ぬすまれた手紙」分析は圧巻で、「総監の論理 → D大臣の隠し方(その否定) → デュパンの推理(否定の否定)」という構造を、推理小説をテキストとして弁証法的に読み解く手際は見事です。
本書はマルクス・エンゲルス・ヘーゲル・毛沢東などからの引用も多く用いますが、権威ある名前だけに寄りかからず、日常例や文学・科学・組織運動の具体例で概念を立ち上げていきます。在野の研究者ならではの自由な発想が、弁証法を読者の日常に引き寄せています。
「世界の二重化」と「自分の二重化」 ―― 独自の認識論
第3章で展開される「世界の二重化」と「自分の二重化」は、三浦独自の認識論の核です。人間は認識によって、現実の世界とは別に頭のなかに世界の像をつくりだす(世界の二重化)。さらに自分自身を対象化して見ることもできる(自分の二重化)。この能力が、言語・芸術・科学という人間の文化的活動のすべてを支えている、と三浦は論じます。
指導者神格化への明示的な批判
本書の重要な特徴のひとつは、レーニン・スターリン・毛沢東の権威に対する明示的な批判精神です。書評でこれを見落とすと本書の意義の半分が失われます。
第2章で三浦は「マルクス、エンゲルス以後、唯物弁証法とその応用になる社会科学は、均等に直線的に発展してきたでしょうか? ……事実はそうではありません」と述べ、「レーニンにも唯物弁証法の原理をあやまってとらえたところがありますし、スターリンや毛沢東にあってはさらに後退を示している」と明言します。
第6章はこの批判精神の集大成で、毛沢東の「団結 ―― 批判 ―― 団結」の定式を正面から批判します。組織の団結それ自体が非敵対的矛盾の実現・解決のかたちで、思想対立をめぐる批判は敵対的矛盾の解決 ―― 二種類の矛盾は立体的に組み合わさるべきものだから、批判のときに団結が消滅したかのような図式化は誤り、というのが三浦の論点です。さらに毛沢東の指導する文化大革命を「味方を敵あつかいして不当に攻撃し大きな混乱をまねいているもの」として、毛沢東の矛盾論の形而上学的性格と無関係ではない、と明確に批判します。1968年という時代背景を考えれば、相当な批判精神を要した仕事です。
批判的検討(現代から見た批評)
以下は本書本文の議論ではなく、2020年代の読者の立場からの外部的な批評です。本書発刊後の科学・哲学の発展をふまえて、現代の読者が本書を引き継ぐときに向き合うべき論点として整理します。
1. 自然弁証法への適用の射程
三浦は弁証法を自然科学にも適用しています。酸素とオゾン、原子力の連鎖反応、ゼノンのパラドックスの分析は読みごたえがありますが、弁証法の三法則を「世界の一般的法則」として自然科学に「適用する」という方向性そのものに、問いを向ける必要があります。法則が先にあって自然に当てはめるなら、それは三浦自身が批判した「形而上学」と同じ構造を持つ。三浦自身がスターリン主義の権威を疑う姿勢を保ったので、ルイセンコ事件のような濫用とは一線を画していますが、自然弁証法の方法論的位置づけは現代の読者にはなお検討の余地があります。(ルイセンコ事件への言及は本書本文にはなく、現代からの追加文脈です。)
2. 形式論理学への過小評価
三浦は弁証法と形式論理学を対比し、形式論理学の「あれかこれか」を批判して弁証法の「あれもこれも」を対置しています。20世紀以降の形式論理学は素朴な二値論理にとどまっておらず(多値論理、直観主義論理、様相論理など)、形式論理学を一括して退けるのは弁証法的とは言いがたい。(これらの論理学発展への言及は本書本文にはなく、現代の論理学史からの批評です。)
3. 「意識のハード・プロブレム」の不在
三浦は「精神は物質の高度に組織された形態(人間の脳)の機能」と述べていますが、現代の意識研究が突きつけている「なぜ物質的過程から主観的体験が生じるのか」という問いには十分には答えていません。「ハード・プロブレム」(1995年、チャーマーズ)は本人の没後に明確化された問題であり直接の批判にはなりませんが、三浦の弁証法を現代に引き継ぐならこの問題と正面から向き合う必要があります。(これも本書本文の論点ではなく、現代の心の哲学からの追加論点です。)
それでも読む価値がある理由
第一に、「ものの見方」を鍛える力。 本書の核心は、特定の政治的立場でも個別の哲学的テーゼでもなく、「ものごとを変化と関連のなかに見る」という根本的な態度にあります。
第二に、抽象的思考の訓練。 三浦の具体例は、単に「わかりやすくする」ためだけのものではありません。具体から抽象へ、そしてふたたび具体へ ―― この往復運動を読者に体験させることが本書の教育的な核心です。
第三に、批判精神の方法論。 三浦は弁証法を既成の図式として教条的に適用することを一貫して批判しています。レーニン・スターリン・毛沢東の権威にも忖度せずに「健康な懐疑精神あるいは批判精神」を要求する。「指導者の神格化」「原理的誤謬の恐しさ」を冷静に解きほぐす本書の姿勢は、政治運動・組織運営・学問のあり方をめぐる現代的な問題にも示唆を与えます。
特に、「批判するときには団結が消滅したかのような図式化は誤りだ」「論争上の敵対者を階級的な敵にすり替えるな」「指導者の神格化は害毒だ」という三浦の主張は、左右を問わずあらゆる組織で繰り返される問題への重要な警告として、現在もまったく古びていません。
おわりに
三浦は本書のなかで、弁証法を学ぶことの要諦は「既成の答えに安住することではなく、現実の矛盾に正面から向き合い、自分の頭で考え続けること」にあると繰り返し強調しています。
であるならば、本書そのものに対しても、その態度で臨むべきです。本書の主張をすべて鵜呑みにするのは三浦の教えに反します。かといって、時代的制約を理由に全否定するのも弁証法的ではありません。
著作のなかに今なお有効な洞察を見出し、同時にその限界を見据え、そこから自分自身の思考を発展させていく ―― そのような読み方ができる読者にとって、本書は今もなお実り豊かな一冊です。
書誌情報
- 三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』講談社現代新書、1968年
- 電子書籍版:2012年12月、講談社


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